この記事で分かること
『常陸国風土記(ひたちのくにふどき)』は、奈良時代に常陸国(今の茨城県)の様子をまとめた書物です。
その中の香島郡(かしまのこおり)の条には、鹿島神宮の神様や、この土地の暮らし、そして切ない恋の物語が書かれています。
古事記・日本書紀とはひと味違う、「土地の人の目線」で見た鹿島の姿をお話しします。
常陸国風土記の香島郡を一言でいうと
鹿島の神様「香島の天の大神」と、その神様とともに暮らした人々の姿を描いた、奈良時代の地誌です。
古事記・日本書紀が「国の歴史」を書いた本だとすれば、風土記は「土地の記録」です。
その土地の地名の由来、特産物、古老たちが語り伝えた話などが、生き生きと書かれています。
風土記ってなに?【史料】
鹿嶋市の公式サイトによると、風土記は次のような書物です。
- 和銅6年(713年)5月2日、各国の特産物や、山・川・野原の名前の由来などをまとめて差し出すように、という詔が下された
- 国司を中心にまとめられ、報告の文書として平城京に提出されたのが風土記
- 今残っている風土記は、常陸国・出雲国・播磨国・肥前国・豊後国の5つ。ほぼ完全な形で残っているのは出雲国風土記だけ
常陸国風土記は、養老年間(717〜723年)に常陸国の国司だった藤原宇合(ふじわらのうまかい)によって完成した、という説が有力だそうです。
藤原宇合は、藤原鎌足の孫にあたります。
古事記ができたのが712年、日本書紀が720年。
風土記は、ちょうど記紀と同じころに作られたんですね。
香島郡のはじまり【史料】
常陸国風土記によると、香島郡ができたのは、孝徳天皇の時代、大化5年(649年)のことです。
中臣(なかとみ)氏の一族が、この地方を治める高向大夫(たかむこのまえつきみ)に申し出て、下総国の海上国造の領地の一部と、那賀国造の領地の一部を合わせて、新しく「神の郡(かみのこおり)」を置きました。
神様のための郡、という意味です。
そして、そこに鎮まる三つの社、
- 天の大神の社(今の鹿島神宮)
- 坂戸の社(さかとのやしろ)
- 沼尾の社(ぬまおのやしろ)
この三つを合わせて「香島の天の大神」と称えた。
ここから「香島」という郡の名前がついた、と書かれています。
茨城県の「常陸国風土記を訪ねる」のページでも、「天の大神の社、坂戸の社、沼尾の社、三処を合わせて、総べて香島の天の大神という」という一文が紹介されています。
土地の言葉では、この地を「霰(あられ)ふる香島の国」と呼んだそうです。
霰がかしましい(やかましい)音を立てて降ることから、「香島」にかかる言葉になったという説があります。
香島の天の大神【史料】
天から降った神様
常陸国風土記には、香島の天の大神が天から降ってきた話が書かれています。
天と地がまだ一つに溶け合っていたころ、高天原に八百万の神々が集められ、「わが御孫が治めるべき豊葦原の水穂の国」という詔が下されました。
その言葉を受けて、高天原から降ってきた大神の名を、香島の天の大神という。
天では「日の香島の宮」、地では「豊香島の宮」と呼ばれた、といいます。
降ってきた地上の国は、荒ぶる神々も、岩も木も草の葉までもが、口々にしゃべりたて、昼は五月の蝿のようにうるさく、夜は火が燃えるようにざわめく国でした。
その国を「言向け(ことむけ)」、つまり言葉で従わせるために降りてきた大御神だった、と書かれています。
古事記・日本書紀の国譲りの話とよく似ていますよね。
でも、ここには「建御雷神」という名前は出てきません。
建御雷神の名前がない
國學院大學の神名データベースによると、常陸国風土記の香島郡の条では、香島の天の大神は「天から降って国土平定の功があった神」とされていますが、建御雷神にあたる神名は書かれていません。
鹿島の神様を、はっきり建御雷神と書いた早い例は、平安時代の初めの『古語拾遺』や『先代旧事本紀』まで下るそうです。
そのため、鹿島の神様がいつから建御雷神とされたのかは、研究者の間でも意見が分かれています。
風土記の中の鹿島の神様は、名前を持たない「天の大神」。
僕は、そこにかえって、土地の人たちがこの神様を身近に感じていた様子が表れているように思います。
毎日お参りする近所の神様を、いちいちフルネームで呼ぶ人はいませんからね。
崇神天皇への神託
常陸国風土記には、崇神天皇の時代の不思議な話も書かれています。
大坂山の頂に、白い衣を着て、白い鉾を杖にした神様が現れ、「私をお祀りすれば、あなたが治める国を、大きい国も小さい国も、すべて任せよう」と告げました。
天皇が、多くの氏族の長たちを集めて、この神様が誰なのかを尋ねると、大中臣の神聞勝命(かむききかつのみこと)が「香島の国に鎮まる大御神のお告げです」と答えます。
驚いた天皇は、香島の神の宮に、次のような品々を奉ったといいます。
- 太刀10口、鉾2枚、鉄の弓2張、鉄の矢2具
- 鉄の板や練った鉄
- 馬1匹、鞍1具
- 八咫鏡(やたのかがみ)2面
- 五色の絹
太刀や鉾、鉄の弓矢。
武器や鉄が多いのは、剣の神様・建御雷神と結びつく鹿島の神様らしいところです。
風土記に描かれた鹿島の暮らし【史料】
天智天皇の時代に宮を造る
天智天皇の時代に、初めて使いを遣わして神の宮を造らせ、それ以来、決まった年ごとに改修されている、と書かれています。
今の鹿島神宮の社殿の建て替えにつながる、古い記録です。
舟を奉るならわし
毎年7月に舟を造って、津の宮に奉るならわしがあった、とも書かれています。
その始まりは、こんな話でした。
昔、倭武天皇(やまとたけるのすめらみこと)の時代に、香島の大神が、中臣の巨狭山命(おおさやまのみこと)に「今、私の舟をお仕えさせなさい」と告げました。
巨狭山命が「つつしんでお受けします」と答えると、夜が明けてから大神は「お前の舟は、海の上に置いたぞ」と言います。
巨狭山命が探してみると、舟は岡の上にありました。
すると大神は、今度は「お前の舟は、岡の上に置いたぞ」と言います。
探してみると、舟は海の上にあったのです。
こんなことが何度も繰り返されたので、巨狭山命はおそれ入って、新しく長さ三丈あまり(約9メートル)の舟を三隻造らせて奉った。
これが、舟を奉るならわしの始まりだ、と書かれています。
神様が、舟を使っていたずらをしている。
そんなふうにも読めて、なんだか微笑ましい話です。
神仙の住む村
天の大神の社のまわりには、占いをつかさどる卜部(うらべ)の人々が住んでいました。
鹿嶋市の公式サイトでは、その村の様子を描いた一節が紹介されています。
東と西を海に臨み、山の木と野の草が生い茂り、崖下の泉は朝夕の汲み水になる。
春に村を歩けば草花が咲き乱れて香り、秋に道を行けば木々の葉が錦のように美しい。
ここはまさに、神と仙人が隠れ住むような所で、その美しさは、とても書き表すことができない。
鹿嶋市の公式サイトは、この一節を「神と人とが同居する空間」として描かれている、と説明しています。
また、社の北にある沼尾の池は、神代に天から流れてきた水がたまってできた沼で、そこでとれる蓮根はほかでは味わえないほどおいしく、病気の人がこの蓮を食べると、たちまち治ったと書かれています。
蓮根がおいしい、と国の報告書にわざわざ書いてある。
奈良時代の役人さんも、きっと食べてみたんだと思います。僕なら、たぶんおかわりしていました。
若松の浜の砂鉄で剣を作る
香島郡の条には、こんな記録もあります。
慶雲元年(704年)、常陸国の国司が、鍛冶の人々を連れて、若松の浜で砂鉄をとり、剣を作った。
ただし、このあたりは香島の神様の山なので、勝手に入って松を伐ったり、砂鉄を掘ったりすることはできない。
茨城県教育委員会は、鹿島神宮に伝わる国宝の直刀(通称「韴霊剣」)について、「鹿嶋の砂鉄との関連については証明できないものの、『常陸国風土記』の記述もあり」と紹介しています。
鹿島の浜の砂鉄と、鹿島の神様の剣。
そのつながりを想像すると、わくわくしますね。
伝承・関連する話
【史料】童子女の松原(おとめのまつばら)
香島郡の条には、とても美しく、そして切ない恋の物語が残されています。
昔、那賀の寒田(さむた)に住む若者と、海上の安是(あぜ)に住む娘がいました。
二人とも神様に仕える若い男女で、どちらも美しく、そのうわさは村をこえて伝わり、いつしか互いにひそかな思いを抱くようになりました。
月日がたち、歌垣(うたがき、男女が歌を掛け合う集まり)の場で、二人は偶然出会います。
歌を交わしたあと、人目を避けて松の木の下へ行き、手を取り、膝を並べて、胸に秘めていた思いを語り合いました。
秋風が梢を吹き抜け、空には満月。
二人は語らいに夢中になり、夜がふけるのも忘れてしまいます。
ところが、突然、鶏が鳴き、犬が吠え、気がつくと朝日が差しこんでいました。
二人はどうしてよいか分からず、人に見られることを恥じて、そのまま松の木になってしまった。
若者の松を奈美松(なみまつ)、娘の松を古津松(こつまつ)といい、その名は今も変わらない、と書かれています。
夜明けとともに、松になってしまった二人。
風土記は、この話を淡々と書いています。
でも、その淡々とした書き方が、かえって胸に残るんです。
【史料】白鳥の里と角折の浜
香島郡の条には、ほかにもこんな話があります。
- 白鳥の里:垂仁天皇の時代、天から白鳥が飛んできて、朝は乙女の姿になって小石を集め、池の堤を築こうとした。でも積んではすぐ崩れ、ついに歌を残して天に帰ってしまった。そこから白鳥の里と名づけられた
- 角折の浜(つのおれのはま):昔、大きな蛇が海に出ようとして浜に穴を掘ったら、角が折れてしまった。あるいは、倭武天皇がこの浜で水を求めて鹿の角で地面を掘ったら、角が折れてしまった。そこから名づけられた
【史料】旅人は、まず香島の大神を拝んだ
常陸国風土記の信太郡(しだのこおり)の条には、東海道から常陸国に入る榎浦(えのうら)の津で、役人たちがまず口と手を洗い、東に向かって香島の大神を遥拝してから国に入った、という話も書かれています。
常陸国の入り口で、まず鹿島の神様にごあいさつ。
それほど、香島の大神は、常陸国の人々にとって特別な存在だったんですね。
古神道的な読み解き
記紀と風土記の違い
古事記・日本書紀は、天皇の国の成り立ちを語るために、神話を一つの流れにまとめています。
一方、風土記は、その土地の古老が語り伝えた話を、土地ごとに書き留めています。
そのため風土記には、記紀には出てこない神様の姿や、地名の由来、人々の暮らしが残っています。
「神の郡」の人々が、神様とどう暮らしていたのか。
それを知ることができるのは、風土記ならではなんです。
まこも考察
ここからはまこもの考察です。
常陸国風土記の香島郡を読んでいて、僕がいちばん心を動かされたのは、神様が「言向け」、つまり言葉で国を従わせるために降りてきた、という一文です。
草も木も岩も、しゃべりたてて騒がしい国。
その国を、剣で切り開くのではなく、言葉で鎮める。
それが、香島の天の大神の役目だったと、風土記は書いています。
そして、その神様がいる村は、「神と仙人が隠れ住むような所」と描かれました。
春の花、秋の紅葉、朝夕の泉。
神様が鎮めた土地は、美しく、穏やかな場所になったんです。
童子女の松原の二人も、神様に仕える若者たちでした。
夜明けに松になってしまった二人は、悲しい結末のようにも見えます。
でも僕は、二人がずっと並んで立ち続ける松になったことを、神様が与えた、もう一つの「永遠」だったのではないかと思っています。
まとめ
- 常陸国風土記は、和銅6年(713年)の詔をきっかけにまとめられた常陸国の地誌で、今残る5つの風土記の一つです。
- 香島郡は、大化5年(649年)に置かれた「神の郡」で、天の大神・坂戸・沼尾の三社を合わせて「香島の天の大神」と称えました。
- 香島の天の大神は、天から降って国を言向けた神様とされますが、建御雷神という名前は書かれていません。
- 崇神天皇が太刀や鏡を奉った話、舟を岡と海に置きかえる神様の話、若松の浜の砂鉄で剣を作った記録などが残っています。
- 童子女の松原の恋の物語など、記紀にはない、土地の人々の心が伝わる話がたくさんあります。
国の歴史書とは違う、土地の人の目で見た鹿島。
その中には、神様と人とが一緒に暮らしていた、やさしい風景が広がっているんですよね。
よくある質問(FAQ)
Q. 常陸国風土記は、いつ作られたのですか?
A. 和銅6年(713年)に風土記をまとめるように詔が出され、常陸国風土記は養老年間(717〜723年)に完成したという説が有力です。
Q. 香島の天の大神と、建御雷神は同じ神様ですか?
A. 今の鹿島神宮では、御祭神を武甕槌大神(建御雷神)としています。ただ、常陸国風土記には建御雷神という名前は書かれておらず、いつから同じ神様とされたのかは、はっきりしていません。
Q. 坂戸の社と沼尾の社は、今もありますか?
A. 坂戸神社と沼尾神社は、今も鹿島神宮の摂社として鹿嶋市内にあります。
Q. 常陸国風土記は、どこで読めますか?
A. 岩波書店の「日本古典文学大系」などに原文と注釈が収められています。茨城県の「常陸国風土記を訪ねる」のページや、鹿嶋市の公式サイトでも、一部が紹介されています。
この記事は、古事記・日本書紀などの原典や、ネット上の資料を参考にまとめ、まこもが考察を加えたものです。考察の部分は「まこも考察」として書き分けています。
出典・参考文献
- 『常陸国風土記』香島郡・信太郡(岩波日本古典文学大系本にもとづく現代語訳を参照)
- 鹿嶋市「常陸国風土記に記された”鹿嶋”」 https://www.city.kashima.ibaraki.jp/site/bunkazai/50031.html
- 茨城県「常陸国風土記を訪ねる 鹿島神宮」 https://www.bunkajoho.pref.ibaraki.jp/fudoki/visit/06/index.html
- 國學院大學 古典文化学事業「古事記ビューアー」神名データベース「建御雷之男神」 https://kojiki.kokugakuin.ac.jp/shinmei/takemikazuchinoonokami/
- 茨城県教育委員会「直刀 黒漆平文大刀拵」 https://kyoiku.pref.ibaraki.jp/bunkazai/kuni-56/
- 神話の森「口訳・常陸国風土記」 http://nire.main.jp/rouman/sinwa/hitatihudoki.htm


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