富士塚とは?江戸の人々が町に作った「小さな富士山」の歴史と見どころ

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この記事で分かること
富士塚(ふじづか)は、神社の境内などに作られた、富士山をかたどった小さな山です。

江戸の人々は、なぜ町の中に「富士山」を作ったのか。
いちばん古い富士塚はどこなのか。
今でも登れる富士塚はあるのか。
富士塚の歴史と見どころを、史料と伝承に分けてお話しします。

富士塚を一言でいうと

江戸時代に、富士山を信仰する人々の集まり「富士講(ふじこう)」が、富士山まで行けない人でもお参りできるようにと、町の中に築いた「小さな富士山」です。

本物の富士山の溶岩(ボク石)を運んで山肌をおおったり、登山道や合目の石、頂上の祠(ほこら)まで作ったりして、富士山そのものを再現しています。
富士塚に登れば、本物の富士山に登ったのと同じご利益がある、と考えられていました。

東京の下町や、神社の境内で、ごつごつとした黒い石におおわれた小山を見かけたら、それはきっと富士塚なんですよね。

富士塚の基本

項目内容
読みふじづか
別名〇〇富士(地名+富士。例:千駄ヶ谷富士、江古田富士)
作られた時代江戸時代の後期から多く作られた
作った人たち富士山を信仰する「富士講」の人々
特徴富士山の溶岩でおおう、登山道・合目の石・頂上の浅間神社の祠などを作る
行事山開き(多くは7月1日前後)
東京に残る数50あまりといわれる

富士塚が生まれた背景

富士山を信仰する「浅間信仰」

富士山は、昔から、噴火をくり返す恐ろしい山として、そして美しく神聖な山として敬われてきました。
富士山の神様は「浅間大神(あさまのおおかみ)」と呼ばれ、江戸時代のはじめごろからは、木花之佐久夜毘売と同じ神様とされるようになりました。

富士山の神様を信仰することを、「浅間(せんげん)信仰」「富士信仰」といいます。

富士山に初めて登った人の伝説

富士山には、古くから修行者たちが登っていたと考えられています。
平安時代の仏教説話集『日本霊異記』には、伊豆に流された役小角(役行者)が、夜になると空を飛んで富士山へ通い、修行をしたという話が書かれています。
そこから役小角は、「富士山に初めて登った人」の一人として語られるようになりました【伝承】。

長谷川角行と富士講のはじまり

江戸時代の富士講の人々が、信仰の開祖として敬ったのが、長谷川角行(はせがわかくぎょう)です。
戦国時代から江戸時代のはじめにかけての人で、富士山のふもとの「人穴(ひとあな)」という洞窟で厳しい修行をし、富士山の神様の教えを伝えたとされます。
正保3年(1646年)に、105歳で人穴で入定(にゅうじょう)したと伝えられています【伝承】。

食行身禄と「江戸八百八講」

富士講を大きく広めるきっかけになったのが、食行身禄(じきぎょうみろく)です。

伊勢国出身の商人で、江戸で油売りをしていたといわれる身禄は、享保18年(1733年)、庶民を救い、世を正すことを願って、富士山の七合五勺の烏帽子岩(えぼしいわ)で31日間の断食の行を行い、そのまま入定しました。

身禄の死後、弟子や娘たちが江戸で富士講を次々に作り、やがて「江戸八百八講、講中八万人」といわれるほど、富士講は大いに栄えました。
講のメンバーはお金を出し合って、代表者が富士山に登拝しました。

「行けない人」のための富士山

でも、江戸から富士山までは、歩いて何日もかかります。
お金も時間も必要ですし、当時は、女性が富士山の上のほうに登ることは禁じられていました。
お年寄りや子どもにとっても、富士登山はとても大変なことでした。

そこで、「富士山に行けない人でも、富士山にお参りできるように」と、町の中に作られたのが富士塚です。
富士塚に登れば、本物の富士山に登ったのと同じご利益がある。
そう信じられて、富士塚は江戸の町のあちこちに作られていきました。

僕は階段が続くだけで息が切れてしまうので、町の中に富士山を作ってくれた江戸の人々には、心から感謝したい気持ちです。

最初の富士塚と、いちばん古い富士塚

「いちばん古い富士塚はどこか」という問いには、実は二つの答えがあります。

最初に作られた富士塚:高田富士

最初に作られた富士塚とされるのが、「高田富士」です。
食行身禄の弟子で、富士講の先達(せんだつ)だった高田藤四郎(たかたとうしろう、日行青山)が、安永8年(1779年)ごろに、江戸の高田(今の東京都新宿区西早稲田のあたり)の水稲荷神社の境内に築いたとされます。
安永9年(1780年)とする資料もあり、年には少し幅があります。

高田富士は、もともとは今の早稲田大学の構内にありましたが、大学の拡張にともない、昭和38年(1963年)に、水稲荷神社とともに今の場所(新宿区西早稲田3丁目)に移されました。

今の場所に残るいちばん古い富士塚:千駄ヶ谷富士

作られた当時の場所に今も残っている富士塚の中で、東京でいちばん古いとされるのが、渋谷区千駄ヶ谷の鳩森八幡神社(はとのもりはちまんじんじゃ)の境内にある「千駄ヶ谷富士」です。
寛政元年(1789年)に作られたとされ、東京都の有形民俗文化財に指定されています。
大正12年(1923年)の関東大震災で修復されましたが、作られた当時の姿をよく残しているといわれます。

高田富士千駄ヶ谷富士
作られた年安永8年(1779年)ごろ(安永9年説もある)寛政元年(1789年)とされる
場所新宿区西早稲田(昭和38年に移設)渋谷区千駄ヶ谷・鳩森八幡神社
「最古」の意味最初に作られた富士塚移設されずに残るものでは都内最古

「どちらが最古か」は、「最初に作られたもの」を数えるか、「元の場所に残るもの」を数えるかで変わるんです。

有名な富士塚

国の重要有形民俗文化財になっている富士塚

次の5つの富士塚は、国の重要有形民俗文化財に指定されています。

富士塚場所特徴
江古田の富士塚東京都練馬区(茅原浅間神社)高さ約8メートル、直径約30メートル。天保10年(1839年)ごろに作られたと考えられる
豊島長崎の富士塚東京都豊島区(富士浅間神社)
下谷坂本の富士塚東京都台東区(小野照崎神社)文政11年(1828年)に作られた。高さ約5メートル、塚全体を富士山の溶岩でおおう
木曽呂の富士塚埼玉県川口市
田子山富士塚埼玉県志木市(敷島神社)

江戸七富士

江戸の人々は、品川・千駄ヶ谷・下谷坂本・江古田・十条・音羽・高松の七つの富士塚を「江戸七富士」と呼んで、めぐってお参りしたといわれます【伝承】。
七つの富士山を一日でめぐれるなんて、江戸の人々の工夫には感心させられます。

素盞雄神社の「小塚原富士」

東京・南千住の素盞雄神社にも、富士塚があります。
神社の創建のきっかけになった「瑞光石」の塚を、元治元年(1864年)に富士塚に作り、「小塚原富士」と呼ぶようになったものです。
頂上には浅間神社がお祀りされていて、荒川区の指定文化財になっています。
ふだんは登れませんが、毎年7月1日に山開きの神事が行われます。
くわしくは素盞雄神社の記事で紹介しています。

富士塚の楽しみ方

山開きの日に登る

多くの富士塚は、ふだんは柵で囲まれていて登れませんが、山開きの日だけ登ることができる富士塚もあります。
本物の富士山の山開きが7月1日(昔は旧暦6月1日)であることにあわせて、7月1日前後に山開きを行う神社が多いです。
一方で、一年中登れる富士塚もあります。

※ 登れる日や時間は富士塚ごとに違います。お出かけの前に、各神社の公式サイトなどで確認してください。

富士塚の「見どころ」

富士塚には、本物の富士山を再現するための工夫がたくさんあります。

  • 溶岩(ボク石):富士山から運んできた黒い溶岩で、山肌がおおわれています
  • 登山道と合目石:「一合目」「二合目」と刻まれた石が、登山道に沿って置かれています
  • 頂上の祠:頂上には、浅間神社(富士山の神様)の小さな祠がお祀りされています
  • 御胎内(おたいない):富士山の溶岩洞窟を模した、小さな洞穴が作られている富士塚もあります
  • 講の石碑:富士講の名前や紋を刻んだ石碑が、たくさん立っています

登る前にお参りをして、ゆっくり一合ずつ登っていくと、小さな山でも、ちょっとした富士登山の気分が味わえます。

古神道的な読み解き

「写し」にも神様は宿る

富士塚は、富士山の「写し」です。
でも、江戸の人々は、それを単なる模型とは考えていませんでした。
本物の富士山の溶岩を使い、浅間神社の神様をお祀りすることで、富士塚そのものが「富士山」として、神聖な場所になると考えたんです。

神様の力は、分けてお祀りしても、同じように宿る。
これは、神社で神様の御分霊(ごぶんれい)をお迎えする「勧請(かんじょう)」の考え方とも通じています。

山は神様の住まい

大神神社の三輪山のように、山そのものを神様として敬う考え方は、日本の信仰の中でもとても古いものです。
富士塚は、その「山への信仰」を、町の中に持ち込んだものといえます。
どんなに都会になっても、人々は、見上げる山に神様を感じる心を持ち続けていたんですね。

まこも考察

ここからはまこもの考察です。

富士塚について調べていて、僕が心を動かされたのは、「行けない人のために、山のほうを連れてきた」という発想です。

富士山にお参りしたくても、お金がない人、時間がない人、体力のない人、女性であるために頂上まで登れなかった人。
そうした人たちのために、江戸の人々は、富士山の溶岩をはるばる運び、町の中に「富士山」を作りました。

信仰は、一部の人だけのものではなく、誰でも参加できるものであってほしい。
富士塚には、そんな江戸の庶民のやさしい願いが込められているように思います。

素盞雄神社の小塚原富士が、神社の始まりとなった瑞光石の塚の上に作られたのも、心に残ります。
もとからあった「神様の宿る石」の上に、新しい「富士山への信仰」を重ねていく。
古い信仰と新しい信仰を、切り離さずに重ねていくところに、日本の信仰の豊かさがあるのではないでしょうか。

関連する神様・記事

伝承・関連する話

【伝承】富士塚に登れば、富士山に登ったのと同じ

富士塚に登れば、本物の富士山に登ったのと同じご利益がある、と言い伝えられてきました【伝承】。
富士講の人々にとって、富士塚は「練習の山」ではなく、「もう一つの富士山」だったんです。

【伝承】御胎内くぐり

富士山のふもとには、溶岩でできた洞窟「御胎内(おたいない)」があり、その中をくぐることは、富士山の神様のお腹の中から生まれ直すことだと考えられてきました。
富士塚の中には、この御胎内を小さく再現したものもあります【伝承】。
洞窟をくぐって出てくることで、心も体も清められ、生まれ変わる。
神道の禊(みそぎ)にも通じる、生まれ直しの考え方です。

まとめ

  • 富士塚は、江戸時代に富士講の人々が、富士山に行けない人でもお参りできるように、町の中に築いた「小さな富士山」です。
  • 富士講は、長谷川角行を開祖とし、享保18年(1733年)に入定した食行身禄をきっかけに江戸で大きく広まり、「江戸八百八講」といわれました。
  • 最初の富士塚は高田藤四郎が築いた高田富士(1779年ごろ)、元の場所に残る都内最古は鳩森八幡神社の千駄ヶ谷富士(1789年)とされます。
  • 江古田・豊島長崎・下谷坂本・木曽呂・田子山の富士塚は、国の重要有形民俗文化財です。
  • 多くの富士塚では、7月1日前後の山開きの日に登ることができます。

行けない人のために、山のほうを町に連れてきた。
富士塚は、江戸の人々のやさしさと、山への信仰が形になった、町の中の聖地なんですよね。

よくある質問(FAQ)

Q. 富士塚には、誰でも登れるのですか?
A. 富士塚によって違います。一年中登れるものもあれば、山開きの日(多くは7月1日前後)だけ登れるもの、登ることができないものもあります。お出かけの前に、各神社の公式サイトなどで確認してください。

Q. いちばん古い富士塚はどこですか?
A. 最初に作られた富士塚は、高田藤四郎が築いた高田富士(1779年ごろ)とされます。作られた当時の場所に残るものでは、渋谷区の鳩森八幡神社にある千駄ヶ谷富士(1789年)が、東京でいちばん古いとされています。

Q. 富士塚に登ると、どんなご利益があるのですか?
A. 富士塚に登れば、本物の富士山に登ったのと同じご利益があると言い伝えられてきました。富士山の神様・浅間大神(木花之佐久夜毘売)のご利益として、安産、家内安全、火難除けなどを願う人が多いとされます。

Q. 富士塚の黒い石は、本物の富士山の石ですか?
A. 多くの富士塚では、富士山から運んできた溶岩(ボク石)で山肌をおおっています。本物の富士山の石を使うことで、富士塚そのものが富士山として神聖な場所になると考えられていました。

この記事は、古事記・日本書紀などの原典や、ネット上の資料を参考にまとめ、まこもが考察を加えたものです。考察の部分は「まこも考察」として書き分けています。

出典・参考文献

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