大村益次郎とは?医者から日本の近代兵制の父へ 靖国神社に立つ日本最初の西洋式銅像の人物

この記事は約4分で読めます。

この記事で分かること
大村益次郎(おおむらますじろう)は、幕末から明治のはじめにかけて活躍した人物です。

村の医者の家に生まれ、蘭学を学び、やがて日本の近代的な軍制の基礎をつくりました。
靖国神社に立つ銅像の人物として知られる、その生涯をお話しします。

大村益次郎を一言でいうと

医者から兵学者へ、そして日本の近代兵制の父と呼ばれた、学問の人です。

靖国神社の第一鳥居と第二鳥居のあいだには、高さ約12mの大村益次郎の銅像が立っています。

大村益次郎のプロフィール

項目内容
生没年文政8年(1825年)〜明治2年(1869年)
出身周防国(今の山口県)の医者の家
学んだところ緒方洪庵の適塾(大坂)
主な役職長州藩の軍制改革の中心、軍務官副知事、兵部大輔
最期明治2年、京都で襲われ、その傷がもとで亡くなる

※ 生没年・経歴は、コトバンク(日本大百科全書など)によります。

大村益次郎の生涯【史料】

村の医者から蘭学者へ

コトバンクによると、大村益次郎は周防国の医者の家に生まれ、大坂の緒方洪庵の適塾で医学と蘭学を学び、塾頭にまでなりました。
シーボルトからもオランダの医学を学んだといわれます。

宇和島藩・幕府で

その後、宇和島藩(今の愛媛県)に招かれ、兵書の翻訳や軍艦づくりにたずさわりました。
さらに幕府の蕃書調所や講武所でも教えています(コトバンク)。

医学を学んだ人が、オランダ語の兵学書を読みこなすうちに、兵学の専門家になっていったのです。

長州藩の軍制改革と戊辰戦争

やがて長州藩に戻った大村は、慶応年間の軍制改革で中心的な役割を果たし、西洋式の銃を使う軍隊をつくりました。
戊辰戦争では新政府の軍務官として戦いを指揮し、戦争が終わると軍務官副知事となりました(コトバンク)。

兵部大輔として

明治2年(1869年)、兵部大輔(ひょうぶたいふ)となった大村は、藩の兵の解散、徴兵制、鎮台・鎮守府の設置など、中央集権的な近代の軍制を立案しました(コトバンク)。

暗殺

けれども同じ明治2年の9月、京都で攘夷派の浪士に襲われて重傷を負い、約2か月後に亡くなりました。

東京招魂社と大村益次郎【伝承】(諸説あり)

明治2年に創建された東京招魂社(今の靖国神社)は、戊辰戦争で亡くなった人々をお祀りするためにつくられました。
九段の地を東京招魂社の場所として選んだのは大村益次郎だった、と紹介されることがあります(諸説あり)。

日本最初の西洋式銅像

旅行読売によると、靖国神社の大村益次郎像は、明治26年(1893年)に建てられた、日本で最初の西洋式の銅像とされています。
高さは約12m、作者は彫刻家の大熊氏廣(おおくまうじひろ)です。

上野の西郷隆盛像(明治31年)よりも前に建てられた、日本の銅像の草分けなんですね。
靖国神社については、靖国神社の記事で紹介しています。

古神道的な読み解き

学問の力

大村益次郎は、剣の達人でも、名門の武士でもありませんでした。
村の医者の家に生まれ、書物を読み、学問を積み重ねることで、時代を動かす人になりました。

まこも考察

ここからはまこもの考察です。

大村益次郎を調べていて、僕がいちばん心をひかれたのは、医者として学んだ人が、オランダ語の本を読むうちに、兵学の第一人者になっていった、ということです。

一つの学問を深く学ぶと、思いもよらない別の道が開けることがある。
大村の人生は、そのことをよく表しているように思えます。

ちなみに僕は、一つのことを深く学ぶ前に別のことに目移りしてしまうので、大村の集中力を見習いたいところです。

大村益次郎が登場する作品

司馬遼太郎『花神』

大村益次郎を主人公にした歴史小説で、昭和52年(1977年)にはNHK大河ドラマ『花神』にもなりました。

まとめ

  • 大村益次郎は、周防国の医者の家に生まれ、適塾で医学と蘭学を学びました。
  • 宇和島藩・幕府で兵学を教え、長州藩の軍制改革と戊辰戦争を指揮しました。
  • 兵部大輔として、日本の近代兵制の基礎を立案しました。
  • 明治2年、京都で襲われ、その傷がもとで亡くなりました。
  • 靖国神社の銅像は、明治26年に建てられた日本最初の西洋式銅像とされます。

書物と学問の力で、時代を動かした人。
大村益次郎の銅像は、今も九段の坂の上から、東京の街を見つめています。

よくある質問(FAQ)

Q. 大村益次郎の銅像はどこにありますか?
A. 東京・九段の靖国神社の、第一鳥居と第二鳥居のあいだにあります。

Q. 大村益次郎はなぜ「近代兵制の父」と呼ばれるのですか?
A. 兵部大輔として、徴兵制や鎮台の設置など、近代的な軍制の基礎を立案したからです。

この記事は、古事記・日本書紀などの原典や、ネット上の資料を参考にまとめ、まこもが考察を加えたものです。考察の部分は「まこも考察」として書き分けています。

出典・参考文献

コメント

タイトルとURLをコピーしました