真田丸と「真田の抜け穴」伝説 大坂冬の陣の出城と、各地に残る幸村の抜け穴・生存説

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この記事で分かること
真田丸(さなだまる)は、慶長19年(1614年)の大坂冬の陣で、真田幸村(信繁)が大坂城の南に築いた出城です。

その近くの三光神社には「真田の抜け穴」が残り、全国にも幸村の抜け穴の伝説が伝わっています。
真田丸の史実と、抜け穴や生存説などの伝説を、分けてお話しします。

この記事のテーマを一言でいうと

真田幸村が徳川の大軍を退けた出城と、その活躍が生んだたくさんの伝説の話です。

真田丸の戦いは、大坂の陣で豊臣方がいちばん大きな勝利をおさめた戦いといわれます。
その鮮やかさが、人々の心に「抜け穴」や「生きのびた幸村」の物語を残していったんです。

真田丸ってどんな出城?【史実】

大坂城の南に築かれた出城

三井住友トラスト不動産「このまちアーカイブス」の解説によると、慶長19年、豊臣方の真田信繁は、大坂城の平野口の南側に、曲輪(くるわ)と呼ばれる出城を築きました。

東西およそ200mの大きさで、半月のような形から「偃月城(えんげつじょう)」とも呼ばれたそうです。
中は東西二つの曲輪に分かれ、堀に架けた土の橋で大坂城の中とつながっていました。

真田丸はどこにあった?

真田丸は、今の大阪明星学園のあたりにあったとされ、学園のテニスコートの東側には顕彰碑が建てられています(このまちアーカイブス)。
三光神社のある宰相山公園は、そのすぐ北側にあたります。

近くの心眼寺(しんがんじ)は、山号を「真田山」といい、真田家と同じ六文銭を寺紋にしています。

真田丸の戦い

真田信繁は、3,000人あまりの兵でこの出城を守り、徳川方の前田利常・井伊直孝・松平忠直らの攻撃を退けました。
冬の陣で、豊臣方がおさめたいちばん大きな勝利とされています。

けれども冬の陣のあとの和議で、真田丸は取り壊されてしまいました。
そして翌年の夏の陣で、信繁は戦いの中で命を落とします。

三光神社の「真田の抜け穴」【伝承】

大坂城までの地下道?

三光神社の境内には、「真田の抜け穴」と呼ばれる穴があります。
大坂城まで続く地下道の入口だと伝えられています。

旅行サイトの紹介によると、抜け穴はふだんは鉄の扉で閉じられていて、毎年11月の「真田まつり」の日にだけ開けられるそうです。
中は7mほどで行き止まりになっている、と紹介されています。

正体は前田軍の塹壕?

旅行読売によると、この穴は大坂城から続くものではなく、慶長19年の戦いのときの前田利常軍の塹壕の跡ではないか、と考えられています。
真田丸を攻めた側が掘った穴に、守った幸村の名前がついている、ということになります。

三光神社については、三光神社の記事で紹介しています。

各地に残る「幸村の抜け穴」【伝承】

九度山の真田古墳(和歌山県)

関ヶ原の戦いのあと、真田昌幸・信繁の親子は、和歌山県の九度山で長く暮らしました。
九度山には、大坂城まで続く「真田の抜け穴」だと伝えられてきた岩穴があります。

旅行読売によると、この穴は昭和28年(1953年)の発掘調査で、横穴式の石室を持つ古墳だと分かり、「真田古墳」と名づけられました。

上田・沼田の真田井戸

長野県の上田城や群馬県の沼田城にも「真田井戸」があり、抜け道になっていたと伝えられています(旅行サイトによる)。

真田の人々が守った城や土地には、ふしぎと「抜け穴」の話がついて回るんですね。

幸村の最期と安居神社【史実と伝承】

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で、信繁は徳川家康の本陣に迫る突撃を見せたあと、天王寺の茶臼山の北にある安居神社(やすいじんじゃ)のあたりで討ち取られたと伝えられています。
神社のそばの松の木の下で、疲れて動けなくなっていたところを討たれた、という話が残っています。

噂・都市伝説【噂・俗説】

ここでは、出典を確かめきれない噂話や伝説を紹介します。

【噂・俗説】幸村は生きていた?

「大坂の陣で討たれたのは幸村の影武者で、本人は生きのびた」という生存説が、各地に伝わっています。

よく知られているのが、豊臣秀頼とともに薩摩(鹿児島)へ落ちのびた、という話です。
大坂落城のあと、京の町で「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田が連れて、退きも退いたり加護島(鹿児島)へ」という歌がはやった、と伝えられています。

また、紀州の商人のもとに、落城の翌年から信繁の家来を名のる人物が訪ねてきて、信繁は無事だと伝えた、という記録があるとも紹介されています。
どれも確かな史実として確認できるものではなく、人々が幸村の死を受け入れきれなかった気持ちから生まれた伝説だと考えられます。

【噂・俗説】抜け穴は本当につながっていた?

三光神社の抜け穴について、「本当は大坂城までつながっていた」と語られることがあります。
けれども、中は行き止まりで、大坂城まで続いていたことを示す資料は確認できませんでした。

古神道的な読み解き

英雄を「神様」のように語る心

日本では、非業の死をとげた人や、強く心に残る英雄を、神様のようにお祀りしたり、生きのびた話を語り継いだりしてきました。
源義経が北へ逃げのびたという伝説や、常陸坊海尊が何百年も生きたという伝説も、その一つです。

幸村の抜け穴や生存説も、人々が英雄を「失いたくない」と願った心から生まれたのだと思います。

まこも考察

ここからはまこもの考察です。

真田丸と抜け穴を調べていて、僕がいちばん心をひかれたのは、どの抜け穴も「行き止まり」か「別のもの」だったことです。

三光神社の穴は7mほどで行き止まり、九度山の穴は古墳でした。
それでも人々は、その穴を「幸村の抜け穴」と呼び続けてきました。

穴の先が大坂城につながっていなくても、人々の心の中では、幸村は今もその穴を通って、どこかへ逃げのびている。
抜け穴は、地面ではなく、人々の想像の中にずっと続いているのかもしれません。

ちなみに僕も、仕事の山から逃げる抜け穴がほしいのですが、掘ってみるとたいてい7mで行き止まりです。

真田丸が登場する作品

NHK大河ドラマ『真田丸』(2016年)

真田信繁を主人公にした大河ドラマで、タイトルそのものが出城の名前になっています。
放送をきっかけに、大阪・玉造の真田丸ゆかりの地には多くのファンが訪れるようになりました。

まとめ

  • 真田丸は、慶長19年の大坂冬の陣で、真田信繁が大坂城の南に築いた出城です。
  • 3,000人あまりの兵で前田利常・井伊直孝・松平忠直らの攻撃を退けましたが、和議で取り壊されました。
  • 跡地は大阪明星学園のあたりとされ、近くの三光神社には「真田の抜け穴」が残ります。
  • 抜け穴は前田軍の塹壕の跡とする見方があり、九度山の抜け穴は古墳でした。
  • 「幸村は生きていた」という生存説や、薩摩へ落ちのびた話も伝わっています(噂・俗説)。

行き止まりの抜け穴の先に、人々は英雄の続きを想像し続けてきました。
真田丸と抜け穴の伝説は、幸村がどれほど愛されてきたかを今に伝えています。

よくある質問(FAQ)

Q. 真田丸はどこにありましたか?
A. 今の大阪明星学園(大阪市天王寺区)のあたりとされ、顕彰碑が建てられています。

Q. 三光神社の抜け穴には入れますか?
A. 旅行サイトの紹介によると、ふだんは扉で閉じられていて、11月の真田まつりの日に公開されるそうです。くわしくは三光神社に確認してください。

Q. 幸村は本当に生きのびたのですか?
A. 生存説は伝説として各地に伝わっていますが、確かな史実としては確認されていません。

この記事は、古事記・日本書紀などの原典や、ネット上の資料を参考にまとめ、まこもが考察を加えたものです。考察の部分は「まこも考察」として書き分けています。

出典・参考文献

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