神仏習合と神仏分離とは?「権現」「大菩薩」の時代から明治の大転換まで、神社とお寺の千年

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この記事で分かること
今の私たちは、「神社は神様、お寺は仏様」と自然に分けて考えています。

でも、明治時代になるまで、日本の多くの神社とお寺は一つにまじり合っていました。
その時代を「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」、それを分けたのが「神仏分離(しんぶつぶんり)」です。
身近な神社に今も残るあとをたどりながら、この大きな変化をお話しします。

神仏習合を一言でいうと

日本の神様と、外から来た仏様を、一つのものとして信仰したあり方です。

仏教が日本に伝わったのは6世紀ごろ。
それから千年以上、神様と仏様は、同じ場所で一緒にお祀りされることが多かったんです。

神仏習合のすがた

「権現」と「大菩薩」

神仏習合の時代には、神様が仏教の名前で呼ばれることがよくありました。

  • 権現(ごんげん):仏様が、仮に(権に)神様の姿で現れたもの
  • 大菩薩(だいぼさつ):神様に仏教の菩薩の称号を贈ったもの

たとえば八幡神は、天応元年(781年)に朝廷から「大菩薩」の称号を贈られたと伝えられ、「八幡大菩薩」と呼ばれるようになりました。
三峯神社は、天文2年(1533年)に京都の聖護院から「大権現」の称号を授かっています(三峯神社 公式サイト)。

本地垂迹(ほんじすいじゃく)

神仏習合を支えた考え方の一つが、「本地垂迹(ほんじすいじゃく)」です。
仏様が本当の姿(本地)で、人々を救うために、仮に日本の神様の姿で現れた(垂迹)、という考え方です。

三峯神社では、淳和天皇の時代に弘法大師が十一面観音の像を刻み、社殿のわきに「本地堂」を建てたと伝えられています(三峯神社 公式サイト)。
三峯の神様の本当の姿は十一面観音、というわけですね。

神社を守るお寺「別当寺」

神仏習合の時代には、神社を管理するお寺がありました。
これを「別当寺(べっとうじ)」といいます。
神社のおつとめを、お寺の僧侶がしていることも珍しくありませんでした。

三峯神社の公式サイトによると、三峯山では神前のおつとめも、明治維新まで僧侶が行っていました。
三峯山は「観音院高雲寺」と称し、天台修験の関東総本山として栄えました。

寳登山神社の公式サイトによると、寳登山神社も江戸時代には玉泉寺が別当をつとめ、社を「寳登山大権現」と呼んでいました。

牛頭天王と祇園信仰

疫病除けの神様として信仰された牛頭天王も、神仏習合の中で信仰を広げた神様です。
明治になると、各地の「天王社」は、須佐之男命をお祀りする八坂神社や須賀神社などに名前を改めました。

たとえば江の島の八坂神社も、江島神社の公式サイトによると、江戸時代までは「天王社」と呼ばれ、明治6年(1873年)に八坂神社と改称されています。

神仏分離【史料】

明治政府の方針

明治時代のはじめ、新しい政府は「祭政一致」の理想をかかげ、神道を国の中心に置く方針をとりました。
そのために、神社とお寺をはっきり分けるよう命じる、一連の通達を出しました。
これらをまとめて「神仏分離令」または「神仏判然令」と呼びます。

  • 神社に仕えていた僧侶には、僧籍を離れる(還俗する)ことを命じる
  • 神社の御神体を仏像とすることを禁じる
  • 神社から仏像や仏具を取りのぞく

などが求められました。

各地で起きたこと

神仏分離によって、神社とお寺は別々の組織になりました。
地域によっては、行き過ぎた動きとして、お寺や仏像が壊されたりする「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」も起こりました。
その被害の大きさは地域によって大きくちがった、とされています。

身近に残る神仏習合のあと【伝承】

三峯神社:仁王門から隨神門へ

三峯神社の境内案内によると、隨神門は、江戸時代中期、神仏習合の時代に仁王門として建てられました。
明治の神仏分離令で仁王像が撤去され、今の隨神門になったそうです。

仁王門は、お寺の入口で仁王像が守る門。
隨神門は、神社の入口で随神(ずいしん)が守る門です。
建物はそのままで、守る方が入れかわったんですね。

ほかにも三峯神社には、今も朝夕に鐘をつく鐘楼があり、かつての本堂は改修されて、コーヒーハウス「小教院」になっています。
三峯神社の博物館には、十一面観音立像や役行者の像、両界曼荼羅など、観音院時代の仏像や仏画が展示されています。

寳登山神社:住職が神職になった

寳登山神社の公式サイトには、神仏分離の時代を生きた一人の人の物語が紹介されています。

別当寺だった玉泉寺の住職・榮乗(えいじょう)は、天保9年(1838年)に住職に迎えられ、弘化2年(1845年)に社殿の再建を発願しました。
資金集めに苦労しながら工事を進めるうちに、明治を迎えます。
すると榮乗は僧籍を離れ、神道の道を修めて、そのまま再建に打ちこみました。
明治4年に本殿、明治7年に拝殿が完成し、再建には実に29年の歳月がかかりました。
榮乗は、小菅是道(こすげこれみち)と名乗る初代の神職となり、明治8年に76歳で亡くなったそうです。

お坊さんとして始めた社殿の再建を、神職として完成させた。
神仏分離という大きな時代の変化の中で、一つの神社を守り抜いた人の姿が見えてきます。

寳登山神社の公式サイトでは、神仏分離によって神社と玉泉寺はそれぞれ独立した社寺となったものの、共に支え合う形は今に続いている、と説明されています。

古神道的な読み解き

「まじり合う」ことと「分ける」こと

神仏習合は、外から来た仏教を、日本の神様の信仰が拒まずに受け入れてきた姿でもあります。
一方で、神仏分離は、日本の神様の信仰を、あらためて見つめ直そうとした動きでもありました。

どちらにも、それぞれの時代の人たちの思いがありました。
今、神社にお寺の名残りを見つけたとき、それは千年以上続いた信仰の歴史が残した「しおり」のようなものかもしれません。

まこも考察

ここからはまこもの考察です。

神仏分離を調べていて、僕の心にいちばん残ったのは、寳登山神社の榮乗さんの物語です。

お坊さんとして、神社を建て直そうと決めた。
ところが途中で時代が変わり、お坊さんのままでは続けられなくなった。
それでも榮乗さんは、あきらめませんでした。
僧籍を離れ、神職になって、29年かけて社殿を完成させたんです。

榮乗さんにとって大切だったのは、「お寺か神社か」という区別よりも、「この山の神様のお社を立派にしたい」という思いだったのではないでしょうか。

三峯神社の仁王門が隨神門になったように、神仏分離は、形の上では大きな変化でした。
でも、その場所で祈る人たちの気持ちは、変わらずに続いてきた。
だからこそ、今も三峯神社では鐘楼の鐘が朝夕に鳴り、寳登山神社と玉泉寺は支え合っているのだと思います。

ちなみに僕は、スマホの機種変更のたびにデータの引っ越しで半日かかってしまうので、29年かけて建て直しをやり遂げた榮乗さんの根気には、本当に頭が下がります。

神仏習合が登場する作品・モデルになった作品

『平家物語』

那須与一が扇の的を射る前に「南無八幡大菩薩」と祈る場面は、神様を「大菩薩」と呼んだ神仏習合の時代をよく表しています。
くわしくは八幡神の記事で紹介しています。

まとめ

  • 神仏習合は、日本の神様と仏様を一つのものとして信仰したあり方で、千年以上続きました。
  • 神様は「権現」「大菩薩」とも呼ばれ、神社を管理する別当寺もありました。
  • 明治時代のはじめ、政府の神仏分離令によって、神社とお寺は分けられました。
  • 三峯神社の隨神門は、もとは仁王門で、明治に仁王像が撤去されて今の姿になりました。
  • 寳登山神社では、別当寺の住職・榮乗が神職となって、29年かけて社殿を再建しました。

神社で鐘楼やお寺の名残りを見つけたら、それは千年の信仰の歴史が残したしおりです。
ちょっと立ち止まって、その物語を想像してみてくださいね。

よくある質問(FAQ)

Q. 神仏習合とは何ですか?
A. 日本の神様と仏様を一つのものとして信仰したあり方です。神様が「権現」「大菩薩」と呼ばれたり、お寺が神社を管理したりしていました。

Q. 神仏分離とは何ですか?
A. 明治時代のはじめに、政府が神社とお寺をはっきり分けるよう命じたことです。一連の通達は「神仏分離令」「神仏判然令」と呼ばれます。

Q. 権現とはどういう意味ですか?
A. 仏様が、仮に(権に)日本の神様の姿で現れたもの、という意味です。

Q. 神社に今も神仏習合のあとは残っていますか?
A. はい。三峯神社の隨神門はもとは仁王門で、鐘楼も残っています。各地の神社に、同じような名残りが見られます。

この記事は、古事記・日本書紀などの原典や、ネット上の資料を参考にまとめ、まこもが考察を加えたものです。考察の部分は「まこも考察」として書き分けています。

出典・参考文献

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